法政大学について

2005年度1・2月号 雑誌「法政」

法政大学の歴史(その87)「六角校舎と『世紀の会』」

戦後間もない1948年の秋のある日、多摩美術大学1年生だった私は、同級生の田原太郎と連れ立って東大赤門近くの喜福寺というお寺の山門をくぐった。お詣りではない。そこで「アヴァンギャルド芸術」の研究会が開かれている、と聞いたからである。
「研究会」というのは、その年の正月に、花田清輝と岡本太郎が核になって結成された「夜の会」に、少し若い世代の、安部公房や関根弘ら20代文学者のグループ「世紀」が加わって始められたものらしい。その辺のことを、当時付けていた日記を基にして綴った拙著『夢・現・記』の中から引用してみよう。

――その時わたしの見た情景は、およそ“前衛芸術”などとはほど遠い、抹香臭い須弥壇の前に30人ばかり得体の知れない連中が座っていて、なんだかうらぶれた感じのひとりの人物の話に聞き入っているところだった。
しばらくしてその人が椎名麟三だとわかったが、この集まりおよびその母体ともいうべき「夜の会」は、ほとんど公的な記録を残さなかったから客観的正確さは期し難い。

――という次第である。ともあれ、この会に関係した人の名を逐一列挙してみると、上記の他、文学では、「夜の会」会員の野間宏、埴谷雄高、佐々木基一、梅崎春生、中野秀人、小野十三郎。その他、田中英光、五味康祐、中田耕治、中村稔、森本哲郎、渡辺恒雄、いいだもも、柾木恭介など。
さらに、三島由紀夫や芥川比呂志の名があったとの証言もある。そして、後に美術評論家となった瀬木慎一や針生一郎。
美術家では北代省三、山口勝弘、福島秀子、池田龍雄、後で版画家の吉田穂高夫人となった井上千鶴子、今は絵の制作から離れて地域の美術教育や文化活動に精を出している村松七郎など。いずれも、その後の日本の芸術・文化に多大の足跡を残した人たちだ。
研究会は何の規制も設けず外に向かって開かれていたから、1回ぽっきりというのまで含めてその他いろんな人が出入りしていた。

ただし、この「アヴァンギャルド芸術研究会」は翌49年の4月に臨時総会を開いて再組織化を行い、名称を正式に「世紀の会」として発足した。手元にある5月1日付の『世紀ニュース』(No.3)によると、会長・安部公房、副会長・関根弘、記録書記・高田雄二、通信書記・平野(岡本)敏子、会計・河野葉子、会計監査・永田宣夫、管理人・ぶな沢(瀬木)慎一、理事・北代省三・村松七郎・藤池雅子・新貝博とあり、岡本太郎や花田清輝など一世代上の人たちは〈特別会員〉とされている。
会はその後も活発に活動を続けるのだが、会場は、喜福寺から時には東大の教室を借りたりしながら、やがて法政大学に移った。

これは、喜福寺が都合で借りられなくなったということで、法政出身の村松七郎が、福田定良先生にお願いして、その哲学教室を使わせてもらうことになったのである。六角形で背の高い建物の4階だったか、確か〈41番教室〉と呼ばれていたように記憶する。
以来、そこが月々1回乃至2回の割りで開かれた「世紀の会」の主要な〈研究・運動〉の場となったわけだが、会の活動は、場所をそこに移してから、常連の他に、入れ代わり立ち代わり新顔が見えて、ますます活気を帯びたようだった。その顔触れの中には後に岩波の常務になった石崎津義男、映画評論の小川徹などもいた。
当時、私はアルバイトの職場が神保町にあったので、しばしばそこから都電に乗って、ゴトゴトと法政大学のある市ケ谷の方へ九段坂を上って行ったのを思い出すことができる。

もっとも、「世紀」の中で〈絵画部会〉と称していた私たち美術関係者の大部分――その頃には福田恒太とか山野卓造とか西村悟とか、いつのまにか数も増えていた――は、その1年後の50年4月末、一斉に会を退き、美術関係で後に残ったのは、少し遅れて会に入ってきた桂川寛、勅使河原宏、大野齋治など数人であった。
残った彼らは、安部公房、関根弘、瀬木慎一らと共同し、今や高価な珍本となったガリ版刷りの小冊子『世紀群』を、その年の12月末までの間に精力的に都合7冊(他に『世紀画集』1冊)を刊行し、やがて、安部公房の所謂「発展的解消」を遂げるに至るわけだが、朝鮮戦争勃発当時の緊迫した政治状況と激しく擦れ合い揉まれながら2年近くも続けられた「世紀の会」の芸術運動は、決して無にしてはならないものであり、むしろ今日、新たに検証し戦後史の中に明確に位置付けられるべきではなかろうか。

(画家/池田龍雄

 

ページのトップへ戻る