2月

イシス編集学校とは

2016年02月23日

2月

私は編集工学研究所と約26年間にわたって一緒に仕事をしてきました。編集とは一言でいうと、自由を獲得するための方法です。時代の思想の枠組みから自由になるには、たいへんな勉強が必要です。そもそも100年にひとりぐらいしか、自由で創造的な思想家や科学者は出てきません。敷居が高すぎます。編集工学研究所の仕組みは、多くの人が日常的に、そのための方法を身につけることができるよう、ツールを提供することです。

2000年に開講した「イシス編集学校」は「守」「破」」「離」というコースを持っています。人は考え方や発想の「枠組み」や「型」に依拠して生きています。それを真実であるとか、常識であると思っています。まず、自分がどのような型でものごとを分類し考えているかを、型を使うことで意識化するのが「守」です。次に、その型は自由に使いこなせることを実践して学ぶのが「破」です。さらに、それを自らの創造性につなげるのが「離」です。それをオンライン上で「稽古」するのが「イシス編集学校」です。ひとりひとりに指南役がつき、リアルなサロンもあります。

以下は、その仕組みの教育上の意義を書いたものです。2015年12月に刊行された松岡正剛+イシス編集学校著『インタースコア 共読する方法の学校』(春秋社)に掲載した文章です。

大学教育と編集(田中優子)

オリジナリティの源泉

編集という考え方とその能力は、あらゆる創造に必要なものだ。私は研究を通して、江戸文化のほとんどが高度な編集能力で成立していることを実感してきた。

たとえば歌舞伎の「世界」と「趣向」は、古来持ち越されてきた物語と、新しい時代に出現した生活や現象や事件を編集するためのシステムである。過去と現在がそこで出会い、互いに解釈し批評し合う。オリジナリティとは「編集が高度であること」と言い換えることができる。歴史的に蓄積されてきた要素やそのコノテーション(含意)および、同時代の多様性の中に潜む底知れぬコノテーションを使いこなしてこそ「オリジナリティ」は達成される。白紙でものを作ることがオリジナリティだという考え方からは、まともなものは生まれない。編集とは過去から現在に至るまでの要素を編むことである。その要素は有限ではあるが膨大であり、その編み方と編み目には無数の可能性がある。当然、知識はあればあるほどよい。しかしどの方向に向かって編集するか、という構想がなければ、いかなる知識が必要かを見定めることができず、クイズおたくのようなやみくもの知識集めになってしまうだろう。

大学は方法を求めている

知識、知性にかかわる編集は、大学にとっても関心のある、緊急の課題だ。たとえば、文部科学省は2020年度から入試のやり方を変えようとしている。従来の知識を試す試験から、「思考力、判断力、表現力」を試す試験へと、センター入試を抜本的に変えるという。高校は知識とその記憶を増やす教育を中心にしてきた。大学は長いあいだ、大教室のなかで教師の講義を一方的に聞く方法を中心にしてきた。そこから大転換する理由は、新しい時代を切り拓いて行くために、一部のエリートではなく多くの人々に格段の創造力が必要だという考えからである。その判断は正しい。しかしいったいどんな方法でそれが可能なのか?

1970年代以降(つまり大学闘争以後)、従来とは異なる双方向でアクティブな講義やゼミやフィールドワークが、学生運動を経験した世代の教員たちを中心に試されてきた。しかしそれらは個人の努力によって実現されたのであって、必ずしも新しい知性に向かう方法が確立されたわけではなかった。個人レベルでおこなわれる良い教育は、それに出会った人と出会わなかった人との差をもたらす。また、それは教師と学生とが向き合う少人数教育の中でのみ可能なので、全ての授業を転換することは、公的な教育資金が極めて少ない日本の大学では、財政的に不可能である。

だからこそ、イシス編集学校が実現してきたことは注目すべきである。イシス編集学校が確立した方法は、全ての授業を少人数教育に転換することはできない大学教育のことを考えると、それを補うかも知れない大きな可能性を持っているのである。

まず、インターネットによる講座である点だ。私はいまJMOOC(日本版MOOC)の講義を制作中である。MOOCが世界的なインターネット授業を開いたことは周知のとおりだ。しかしそれを最初に導入したアメリカの大学では多くの学生が低い点数とどまり、失敗であったことが明らかになった。理由は簡単で、個人指導や少人数議論が採用されなかったために、単なる超・大教室授業になっただけだからである。その後MOOCを導入した場合はチューターのいるカフェを併設したり、教員が求めに応じて24時間態勢で個人指導をしている。しかしこれも、大きな経済的負担である。

イシス編集学校はMOOCよりずっと早くから、インターネット上で師範による個人指導を展開した。そのためには多くの師範が必要だが、指導方法がまちまちであると能力獲得にムラができたり、思い込みで指導するので成果が上がらなくなる。だからといって統一教科書を作ると、生徒の能力と進捗に沿って指導をせず型にはめることになる。そこでこのやり方にはなにより、詳細で確実な方法が必要なのである。

イシスが伝える「型」の創造力

創造的能力を自らのものにするには、知識だけでは足りない。自力で知識を獲得する基本的方法が身についていることと、もっている知識をさまざまなケースで応用展開する柔軟性があることが必須だ。暗記的知識を増やしたり、やみくもにものを書いたり、心に浮かんだことを言っただけでは、無駄な行為に時間を費やすだけで能力は獲得できない。なぜなら、私たち人間は短い歴史的一点にピンで止められた昆虫のようなもので、その時間と空間に与えられた「思い込み」の中で生きているからである。「世間ってそういうものでしょ」「人間はこうあるべき」「能力とは〜ができること」等々、人間の能力を奪っているほとんどの力が、この「思い込み」である。優秀とされる人たちにいっそう、その傾向が強い。

つまり、やみくもな発言やライティングは、その思い込みを表現するにとどまる。プラトンや孔子が対話によって概念の束縛を解いたのは、まずは相対化によって自分の位置を外から眺め、他の多様な発想が存在することに気づいて、思考の柔軟性を獲得するのが全ての始まりだからだ。では同じことをインターネット上でおこなうために、イシス編集学校は何をしたか。「型」を使った。一見逆説的だ。「型にはめる」のは知性ではないと思われているからである。

しかし型にはめているのではなく、型を使っているのである。型とは何か。思考の道具のひとつである。相対性理論の発見には数式が必要であった。固定された概念が破られるときは、それが「固定された概念に過ぎない」ことが理解された時である。理数世界における数式は、文化においては「型」である。固定された概念は別の言葉で言えば「マインドセット」だ。セットはいったんばらばらにして、その要素に分解したとき、そもそもどのように組み合わされていたかがわかる。つまり、自分の頭の中でなされていた編集の秘密が分かる。そうすれば次にあるのは、それを組み直すことだ。組み直す時に、その型を使って組み直しても、使わないで組み直してもよいわけだが、恐らく、一度は型を使って組み直してみれば型の成り立ちがわかる。それがわかったとき、型を脱することができる。伝統芸能のなかで、型を使いながら伝統を破ることがあり得るのは、実際は型を脱しているのだ。しかし型は、人にものを伝えるメディアでもあるから、それを通してそれを乗り越えることができる。柔軟になるには、堅牢を使いこなさねばならない。

イシス編集学校の学習では、その気づきが可能になる。多くの本を読まねばならないのは、自らの編集要素をできるだけ多く持つことが、柔軟性と創造性を高めるからである。

大学改革は編集である

大学の研究教育における型とは、数式や専門用語や論文作法である。あるていど型を使いこなせるようになると、やはり、それを利用して型を超えることがある。論文の作法はその世界のメディアであり方法であるから、作法にはずれると伝わらなかったり、不正とみなされる。さらにその過程で、自分が発見しようとしていることや表現したいことが、その型と合わないと気づくことがある。それは大事なことだ。自分の能力が至らないのではなく、「この方法ではできない」と気づいたときに、別の方法に移動もしくは新たな方法を発明することができるからである。この場合も、編集要素をできるだけ多く持っていた方が良いので、知識は大事だ。しかしその場合の知識とは、専門分野の知識だけを指すのではない。一分野の方法と用語にとらわれていると、その全体が見えず、その限界も見えない。ひとつのマインドセットを超えるには、その外の言葉と思考方法と価値観が必要なのだ。「教養教育」とは本来、研究を創造的で革新的なものにするための「外の知性」のことなのである。

編集は、大学全体のポリシーの立て方、カリキュラムの編成方法、学部名称、ミュージアムの作り方にまで関係してくる。「世界」と「趣向」で言えば、明治期以来の大学の組み立て(伝統、建学の精神、社会の要請)がひとつの世界、文科省の基準や政策誘導(国家の方針)がもうひとつの世界である。この二つの世界から完全にはずれると、経営は成り立たない。そこで、それらの世界の要素をいったんばらばらにし、今目の前にあるアクチュアルな現実と組み合わせることによって、新たな編集が必要になる。改革とは編集である。この編集には財政的裏付けというものが不可欠だが、考えて見ればカネもまた編集要素なのだ。私も編集能力を高めなければならない。