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Vol.89 時計塔校舎が見守ってきた木月校地

2016年06月07日

中心に「H」の入った予科の徽き章は、法政大学高等学校、第二中・高等学校の校章として受け継がれている

中心に「H」の入った予科の徽き章は、法政大学高等学校、第二中・高等学校の校章として受け継がれている

現在、付属校と大学の総合グラウンドがある川崎・木月(きづき)校地は、1936(昭和11)年から80年にわたって本学の多くの生徒、学生が学び、活動してきた地です。

大学令を受けて1920(大正9)年4月に正式な私立大学となった本学には、中学卒業者が大学の学部に進学するための予備教育機関として、予科が開講されました。当初は、現在の富士見校地に1921年に竣工した3階建ての第一校舎、翌年に竣工した学部用の第二校舎で授業が行われていました。

軍需インフレによって昭和恐慌が克服され、学生数が増加したことから、予科は東京横浜電鉄東横線(現東急東横線)元住吉駅付近の川崎市木月(現川崎市中原区木月大町)へ移転します。ちなみに、東横線にはまだ武蔵小杉駅がなく、南隣の日吉駅付近には慶應義塾大学の予科が一足先に移転していました。

時計塔校舎の玄関欄間には、校歌にある「蛍集めむ門の外濠」にちなんだブロンズ製の蛍があしらわれていた

時計塔校舎の玄関欄間には、校歌にある「蛍集めむ門の外濠」にちなんだブロンズ製の蛍があしらわれていた

木月校地には、1936年10月竣工の鉄筋コンクリート造りの3階建て校舎に続き、学生寄宿舎法政寮、予科図書館、予科武道場、そして総合グラウンドが相次いで整備されました。1939年には法政第二中学校(旧制)、1943年には法政大学第二工業高等学校も設立されます(いずれも後に法政大学第二高等学校に移行)。

新制大学制度により、1949年4月に予科は第一教養部に改編され、市ケ谷に移転します。木月校地には1950〜1985年に短期大学部も置かれましたが、付属校と体育施設の地となり、今に至っています。

木月校地のこうした歴史を見守ってきたのが、予科の本館として建てられた時計塔校舎です。この校舎は、1945年5月の空襲による焼失を免れ、戦後は第二中学校(旧制)、短期大学部、そして第二高等学校の校舎となりました。1986年の第二中学校設置の際に改修され、同校校舎として使用
されてきましたが、2014年に惜しまれつつ取り壊されました。同年竣工の新・時計塔本館は、時計塔校舎の意匠を受け継ぎ、新たな時計塔として地元で親しまれています。

新時計塔は、これからも木月校地のシンボルとして、2016年4月に共学化した第二中・高等学校の生徒たち、グラウンドで練習に励む体育会の学生たちを見守ってくれることでしょう。

取材協力:法政大学史センター、法政大学第二中・高等学校

(初出:広報誌『法政』2016年度4月号)

1946年ごろの木月校地、周囲は空襲で焼け野原に

1946年ごろの木月校地、周囲は空襲で焼け野原に

一時的に並んだ新旧の時計塔(左が新)。2014年3月30日に「時のバトンタッチ」が行われた

一時的に並んだ新旧の時計塔(左が新)。2014年3月30日に「時のバトンタッチ」が行われた