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Vol.83 石岡総合体育施設の歴史

2015年07月30日

左が予科分校と第三中学校。右の三角屋根は講堂

左が予科分校と第三中学校。右の三角屋根は講堂

茨城県石岡市にある石岡総合体育施設は、学生のための総合体育施設です。なぜその地に本学の施設があるのかというと、そこに法政大学第三中学校・高等学校があったことがきっかけです。

1948年、本学は国鉄(現JR)常磐線の石岡駅と羽鳥駅の中間にあった財団法人筑波学園経営の筑波工業専門学校・筑波中学校を吸収合併し、新たに法政大学予科石岡分校と法政大学第三中学校を設置、同地に法政大学石岡分校を発足させました。

法政大学第三中学・高等学校卒業生によって建立された偲学の碑

法政大学第三中学・高等学校卒業生によって建立された偲学の碑

同校を本学が吸収合併したのは、本学の校友・理事で筑波学園でも理事を務めていた中野勝義(1904―1960)の発案によります。もともと筑波工業専門学校・筑波中学校は大日本滑空工業専門学校というグライダー学校でしたが、終戦により航空学校の必要性が薄れ、改組・改称などの努力にもかかわらず経営不振に陥っていました。一方、本学は戦災による校舎の不足が問題となっており、両者の利害が一致したことで合併が行われました。発足時の学生・生徒数は筑波学園からの編入者も含め、予科200人、中学約400人でした。

翌1949年4月には、新制大学令の施行により、予科は教養部石岡分校となり、同時に第三中学校は法政大学第三中学・高等学校に発展しました。しかしその後わずか2年でこの教養部石岡分校が廃止、3年後の1952年には第三中学・高等学校の生徒募集が中止、6年後の1955年には中学・高等学校の最後の卒業生が送り出され、廃校となりました。

本学が吸収した筑波工業専門学校・筑波中学校の前身である大日本滑空工業専門学校(中野勝義が常務理事)の資料。法政大学史センターに現在も保存されている

本学が吸収した筑波工業専門学校・筑波中学校の前身である大日本滑空工業専門学校(中野勝義が常務理事)の資料。法政大学史センターに現在も保存されている

石岡分校の歴史は終戦直後の7年間だけであり、その記録は1961年に刊行された『法政大学八十年史』の「大学予科」の一節に記されています。同書には廃校の経緯が以下のように記されています。

「石岡分校は敷地五二、八〇〇坪を有して前述のように(―見晴らしのよい丘陵の一角を占めて、目前の筑波山に夕陽が沈む―)景勝の地にあった。寄宿舎は三棟あって、その収容能力二五〇名、専任教員の宿舎は二〇室を有するアパートのほかに七棟があった。学生と教員の接触は深く、寄宿舎にも風呂の備えがあるのに、先生の家へ大勢の学生が風呂に入りにきて、話し込んでゆくのを唯一のたのしみとする、というような風があった。しかしながら、一切の文化や娯楽から絶縁された不便で孤立した土地でもあった。学生生徒が出動してバス道路に砂利を敷いたりしたが道は依然わるく、はじめ定期運行していたバスものちには来なくなった。
このような事情のため学生生徒をその周辺から吸収することは実に困難であった。」

現在、この旧石岡分校は石岡総合体育施設として利用されています。15万2190平方メートルの敷地の中にテニスコート9面、野球場、サッカー場、ラグビー場、体育館、自動車練習コース、道場などを擁しています。宿泊施設「スポーツハウス96、98」には、常時200人が宿泊でき、体育会各部の合宿、各種サークルのスポーツ活動、クラスやゼミのスポーツイベントなどに活用されています。

(初出:広報誌『法政』2015年度6・7月号)