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Vol.75 点字出版物の普及に尽力した校友・上瀧安正を支えた梅謙次郎

2014年10月23日

梅謙次郎が子爵花房義質に宛てた自筆書状。視覚障がい者で法政大学卒業の上瀧安正氏をご紹介しますのでご援助をお願いします、といった内容。紫の色で書かれた文字が珍しいが、その理由などは不明。墨文字は後に第三者が加筆したもの(岡山県立記録資料館所蔵)

梅謙次郎が子爵花房義質に宛てた自筆書状。視覚障がい者で法政大学卒業の上瀧安正氏をご紹介しますのでご援助をお願いします、といった内容。紫の色で書かれた文字が珍しいが、その理由などは不明。墨文字は後に第三者が加筆したもの(岡山県立記録資料館所蔵)

本学図書館所蔵の梅謙次郎旧蔵書の中に『帝国憲法要略』と題する書物があります。著者の上瀧安正は1896(明治29)年に和仏法律学校(本学の前身)を卒業した校友で、視覚障がい者でした。この上瀧と梅とを結びつける史料が岡山県立記録資料館にあります。梅が子爵花房義質に上瀧への援助を依頼した自筆書状(写真・上)です。

鳥取県出身の上瀧は、10歳の頃に失明し、その後に上京、1889(明治22)年に東京盲唖学校(筑波大学附属視覚特別支援学校の前身)に入学し、91年に中途退学します。理由は不明ですが法律の勉強を志した上瀧は、当時から身体に障がいがある学生にも門戸を開いていた和仏法律学校を受験、東京盲唖学校で国語や数学などの教養を身につけていたことも幸いして入学を果たしたのでした。鍼灸・マッサージで学費を得ながら法律を学ぶ苦学生の上瀧に、同級生たちは勉学面で大いに協力したと伝えられ、卒業時の成績も上位だったといいます。梅はこのような上瀧を助力し、上瀧にとっても梅は生涯の師となりました。

『帝国憲法唱歌』。鳥居忱(とりいまこと)は「箱根八里」などを作詞した明治・大正期の作詞家で、梅の紹介で上瀧の唱歌を監修した(岸博実氏所有)

『帝国憲法唱歌』。鳥居忱(とりいまこと)は「箱根八里」などを作詞した明治・大正期の作詞家で、梅の紹介で上瀧の唱歌を監修した(岸博実氏所有)

また、上瀧の名前は、法学者で中央大学創立者の一人である穂積陳重の妻・歌子の日記にも登場します。

卒業後間もない上瀧が穂積を訪ね激励されたという内容ですが、穂積は梅や、梅の後に和仏法律学校校長を務めた富井政章とともに民法典の起草にあたり、そのつながりで梅が上瀧を紹介したとも考えられます。上瀧は本学卒業後に東京法学院高等法学科(中央大学の前身)に進んでいるようです。

1901(明治34)年、上瀧は明治憲法の精神を広く国民に浸透させたいと、条文を唱歌にした『帝国憲法唱歌』を発表。その序文を梅と本学校友の弁護士・中鉢美明が書いています。翌年、冒頭の『帝国憲法要略』が刊行されました。

『帝国憲法要略』(法政大学図書館所蔵)

『帝国憲法要略』(法政大学図書館所蔵)

それからしばらくして、09(明治42)年頃に書かれたのが、先の花房子爵宛の梅の手紙です。この頃、上瀧は法律への関心を持ちつつも、自分と同じ境遇の人たちがより多くの本を読めるようにと、点字出版物の普及に力を注ぎます。梅を総裁に、上瀧が発行人となって点字出版協会を発足し、09年に点字雑誌『指し が眼ん』を発行します。この事業に関して上瀧を後押しする梅が花房子爵に援助を依頼したのがこの手紙と思われます。

しかし翌10年8月に梅が急逝、それ以後の上瀧と『指眼』の消息は現在のところ不明ですが、本学校友会名簿によれば、上瀧は昭和10年代前半に牛込区(現在の新宿区)原町に住み、点字博文舎主の肩書きで鍼灸・マッサージを教えていたようです。

●取材協力:岡山県立記録資料館、岸博実(日本盲教育史研究会事務局長)、法政大学図書館、法政大学史センター

(初出:広報誌『法政』2014年度9月号)