Vol.73 「西田文庫」

2014年08月21日

西田忠之氏写真(西田照見氏蔵)。尾張藩飛地の滋賀県蒲生郡竜王町で代官兼庄屋を務める郷士の家に生まれる。1868(明治元)年に刑法官書記として雇われ、76年大審院所属。81年判事となり94年に退官。同年9月の第4回衆議院議員選挙に当選、立憲改進党の議員として活動した

西田忠之氏写真(西田照見氏蔵)。尾張藩飛地の滋賀県蒲生郡竜王町で代官兼庄屋を務める郷士の家に生まれる。1868(明治元)年に刑法官書記として雇われ、76年大審院所属。81年判事となり94年に退官。同年9月の第4回衆議院議員選挙に当選、立憲改進党の議員として活動した

法政大学ボアソナード記念現代法研究所には、ボアソナード博士関係文献・資料とともに、法律関係の貴重資料が収蔵されています。

その一つが、尾張藩士出身で明治初期から中期にかけて判事、代議士を務めた西田忠之氏(1838~1899)の所蔵文書・資料等からなる「西田文庫」です。1999(平成11)年に忠之氏のひ孫で本学大学院を単位取得満期退学した西田照見立正大学名誉教授により本研究所に寄贈されました。

寄贈された資料は、西田家関係、判事時代、代議士時代の3つに大別でき、特に注目されるのが判事時代のものです。当時は、明治維新の変革を経て日本が近代国家を目指して歩み始め、その礎となる国内法の整備が急がれていた時期であり、ボアソナードが明治政府のお雇い外国人として来日し、国内法の整備に多大な貢献を果たした時期とも重なります。

「大審院備考」。これは大審院(当時の最高裁判所)の組織などについての資料。左の頁はボアソナード博士に対する一問一答を記したもの(全部で三問ある)。ここでは、行政官の過失で人民が損害を被った場合の処理を扱っている

「大審院備考」。これは大審院(当時の最高裁判所)の組織などについての資料。左の頁はボアソナード博士に対する一問一答を記したもの(全部で三問ある)。ここでは、行政官の過失で人民が損害を被った場合の処理を扱っている

資料には、ボアソナード答問を参照資料として挿入した「大審院備考」や、諸外国の法律を解説した和綴じ本などが見られ、法律が未整備な中、外国法を参考にしながら近代日本の新ルールづくりに奮励した忠之氏ら判事たちの思いが伝わってくるようです。このほか、民法制定過程の資料と思われるものや、親交のあった同じ尾張藩出身の田中不二麿(官僚・政治家)からの多数の手紙、几帳面に記された金銭出納帳などが見られ、今後の研究が待たれるところです。

照見氏が寄贈先に本学を選んだのは、一つにはご自身が本学大学院で中村哲教授(後に総長)のもとで学び、父親の正秋氏から忠之氏がフランス法を勉強したと聞いていたことがありました。さらに、忠之氏は大隈重信の立憲改進党の代議士でしたが、照見氏は、本学創設者の一人でボアソナードの愛弟子だった薩埵正邦も大隈の考えに共感していたことを知り、本学へ寄贈するのを決断されたのでした。

忠之氏が衆議院議員選挙に当選したときに貼付した履歴書。明治元年から判事を退官するまでの履歴が記されている

忠之氏が衆議院議員選挙に当選したときに貼付した履歴書。明治元年から判事を退官するまでの履歴が記されている

忠之氏は代議士になってからは地元でも東京でもなく、京都に住んで議員活動をしながら趣味の謡曲をたしなむなど穏やかな生活を送ったといいます。京都はまさに薩埵が生まれ育った故郷です。薩埵と忠之氏の直接の接点はありませんが、フランス法が結んだ「つながり」のようなものを感じさせます。

取材協力:
立正大学名誉教授・西田照見氏
法政大学ボアソナード記念現代法研究所

(初出:広報誌『法政』2014年度6月号)

資料は忠之氏の孫・正秋氏によって大正から昭和のはじめにかけて整理され、保存状態は良い。上は判事時代の金銭出納帳。当時の生活ぶりがうかがえる。下左は仏、独、米国カリフォルニア州など外国法の翻訳・解説書。右は親交があった田中不二麿からの手紙。忠之氏は田中の姉と結婚、同郷の植松有経(歌人)とも親交があり、後に植松の二男・藤次を娘婿に迎えている

資料は忠之氏の孫・正秋氏によって大正から昭和のはじめにかけて整理され、保存状態は良い。上は判事時代の金銭出納帳。当時の生活ぶりがうかがえる。下左は仏、独、米国カリフォルニア州など外国法の翻訳・解説書。右は親交があった田中不二麿からの手紙。忠之氏は田中の姉と結婚、同郷の植松有経(歌人)とも親交があり、後に植松の二男・藤次を娘婿に迎えている