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Vol.59 大内兵衞揮毫「実朝のうた」と文房具

2013年03月19日

多くの文化人が暮らした鎌倉にある旧大内邸。大内元総長が逝去した後、法政大学大内記念館として近年まで親しまれた

多くの文化人が暮らした鎌倉にある旧大内邸。大内元総長が逝去した後、法政大学大内記念館として近年まで親しまれた

1950(昭和25)年総長に就任し、本学の発展に多大な功績を残した大内兵衞(1888~1980)。日本を代表する経済学者であり、文筆家としても知られる大内が揮毫した和歌と愛用品がさる2013年1月31日まで市ケ谷キャンパスで開催された「法政大学と大内兵衞展」に展示されました。

淡路島に生まれた大内は幼少時から家庭での教育環境に恵まれ、尋常小学校に通いながら教育熱心な父に農業を学びます。さらに漢学塾を開いていた長兄から史学、南学門下の次兄から儒学、海軍所属軍人の叔兄から修身、高等商業に進んだ五兄から商学を学び、博学多才の礎を築きます。

文筆家としての才能の片鱗は幼少時代からうかがえます。寺子屋で最初の手習いを受けた後、地元の洲本中学校で後に本学で再会する詩人の川路柳虹や国文学者の高木市之助とともに和歌を習います。しかし、このとき大内は彼らとの力量の差を痛感し、経済学の道に進む一つの契機となりました。

1973年4月に大内元総長が揮毫した「実朝のうた」。秋の寂しさを詠んだ「吹く風は涼しくもあるか おのづから山の蝉なきて秋は来にけり」という歌に大内元総長は自らの境遇に重ねて書いたのかもしれない

1973年4月に大内元総長が揮毫した「実朝のうた」。秋の寂しさを詠んだ「吹く風は涼しくもあるか おのづから山の蝉なきて秋は来にけり」という歌に大内元総長は自らの境遇に重ねて書いたのかもしれない

その後、大内は東京帝國大学(現・東京大学)に進学して経済学を専攻し、1913(大正2)年に同大学を首席で卒業します。そして、大蔵省官僚を経験してから東京大学経済学部の教授に着任。同じ頃、日本は満州事変から太平洋戦争へと突入していきます。労農派の論客として活躍していた大内 も時代の荒波に巻き込まれ、警察と監獄で1年半を過ごすことに。そのときに看守の目を盗み、差し入れの文庫本から数枚を破り取って獄中に持ち込んだのが『金槐和歌集』(源実朝家集)でした。大内が孤独と不安に襲われる中で、この本を読みふけったことは想像に難くなく、後に自身の筆で 実朝の和歌を書き著しました。

法政大学総長の任を終えて間もなく、大内は鎌倉市姥ケ谷に居を構えます。この地を選んだのも獄中で心の友とした実朝が詠んだ和歌の原風景へのあこがれがあり、故郷・淡路島と同じ海辺の古い町並みに郷愁を感じたからにほかならないでしょう。

古くから姥ケ谷には、作家の田中英光や哲学者の西田幾太郎、経済学者の住谷悦治、彫刻家の高田博厚などそうそうたる人物たちが居を構えており、全国各地から訪問者が絶えませんでした。大内もまた各界の名士たちと親睦を深めて憲法や都政に対する創造的な意見を発信する一方で、書道にも いそしんだことが展示されている愛用の品々からうかがい知ることができます。

大内元総長が愛用した文宝品(法政大学資格課程準備室蔵)や眼鏡・虫眼鏡・落款・ 印鑑(法政大学大原社会問題研究所蔵)、鎌倉彫の筆入れなど

大内元総長が愛用した文宝品(法政大学資格課程準備室蔵)や眼鏡・虫眼鏡・落款・ 印鑑(法政大学大原社会問題研究所蔵)、鎌倉彫の筆入れなど