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Vol.51 ワイマール期ドイツの転換期を示す選挙ビラ

2012年07月18日

ドイツの転換期を示す選挙ビラ

大統領選に出馬したSPDのオットー・ブラウンは、急死した前大統領・エーベルトの影を背負い、その後継者であることをアピールした

大統領選に出馬したSPDのオットー・ブラウンは、急死した前大統領・エーベルトの影を背負い、その後継者であることをアピールした

大原社会問題研究所が創立された1919(大正8)年、ドイツでは前年に先進的な議会制民主主義のワイマール共和政が発足したばかりでした。同研究所は最先端の学問や社会構造を学ばせるため、数名の研究員を同国に派遣。1920年代、その一人だった櫛田民蔵がカール・マルクスの自筆署名入り『資本論』初版本を持ち帰ったエピソードは、「法政大学 大原社会問題研究所 所蔵 カール・マルクス著『資本論』署名入り初版本」でも紹介しました。これと同時期に、労働者の娯楽を研究していた権田保之助が持ち帰っていた大量の選挙宣伝ビラ・ポスター・新聞記事などが80年もの時を越え、2011年、書庫の片隅から「発見」されました。

今回発見されたのは、1924年12月に行われた国会選挙の資料約123点と、1925年3月の大統領選挙の資料約50点。支持者の多い政党から群小政党まで多様な政党のビラが幅広く収集されており、特に群小政党のものは本国ドイツにも現存しない稀少なものが多数含まれていると考えられます。ハイパーインフレの影響で右派と左派の両極政党が台頭した1924年5月の選挙とは異なり、社会や経済が安定に向かいつつあった同年12月の総選挙では、議会制民主主義を擁護するSPD(ドイツ社会民主党)を中心とする「ワイマール連合」と、国家国民党を中心とする帝政復古を支持する勢力の対立になっていたことが資料から読み取れます。選挙の結果、SPDが躍進し、極左やナチス(ヒトラーは1923年のミュンヘン一揆で投獄中)が関わる極右は議席数を減らすことになりました。

しかしこの国会選挙期間中、帝政復古勢力が現職の大統領エーベルトに対するネガティブキャンペーンを展開し、心労からエーベルトが死去。急きょ行われた1925年3月の大統領選挙では、SPDはエーベルトの後継者としてオットー・ブラウンを擁立。結果的にはどの候補者も過半数に達しなかったため、やり直しの選挙が行われ右派で軍人出身のヒンデンブルク(後にヒトラーを首相に任命)が当選を果たします。先進的な民主主義国家はここから徐々に右傾化し、やがてナチスの台頭、ワイマール共和政の崩壊へと向かうのです。研究所で見つかった資料は、ドイツが民主主義国家から独裁国家へと移行していく嵐の前の静けさと、その予兆を示す貴重な存在といえるでしょう。

(左)当時、活動を禁止されていたナチスは党名を隠して国会選挙に参加していた。ビラ下段は支持層を拡大するための入党申込書   (中)ナチスの象徴ハーケンクロイツを叩くSPD。当時は群小政党のひとつに過ぎなかったナチスを、すでに警戒していたことがうかがえる   (右)国家国民党に投票しない者は「肥えたユダヤ人」(左上)、「戦勝国フランス」(右上)、「ボルシェビズム」(左下)をのさばらせ、「子どもたちをベルサイユ条約(多額の賠償金)の犠牲者にする」(右下)と訴えるポスター(47cm×32cm)

(左)当時、活動を禁止されていたナチスは党名を隠して国会選挙に参加していた。ビラ下段は支持層を拡大するための入党申込書 (中)ナチスの象徴ハーケンクロイツを叩くSPD。当時は群小政党のひとつに過ぎなかったナチスを、すでに警戒していたことがうかがえる (右)国家国民党に投票しない者は「肥えたユダヤ人」(左上)、「戦勝国フランス」(右上)、「ボルシェビズム」(左下)をのさばらせ、「子どもたちをベルサイユ条約(多額の賠償金)の犠牲者にする」(右下)と訴えるポスター(47cm×32cm)

今後は、権田の日記などの資料を元に、収集の目的や方法を追究するとともに、収蔵資料をリスト化し、ドイツの研究機関とも交流するなど、その歴史的価値を明らかにする研究活動が行われていく予定です。