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Vol.50 法政大学 大学史編纂室 名校歌を生んだ「法政スピル」

2012年07月05日

名校歌を生んだ「法政スピル」

スポーツ競技の応援などで演奏される法政大学の歌唱曲は、現在、校歌や応援歌など10曲近くあります。その中でも名曲の呼び声高い法政大学校歌が生まれたのは、1930(昭和5)年のことでした。

端緒は1920(大正9)年の大学令施行までさかのぼります。専門学校(和仏法律学校法政大学)から私立大学となった本学は、翌年に現在の市ケ谷キャンパスに校舎を新築。完成から間もない1923(大正12)年に関東大震災に見舞われますが、他大学に比べて被害が少なかったこともあり、翌年以降の入学志願者が急増します。さらに1925(大正14)年に六大学野球リーグが始まったことにより、学生たちの愛校心は高揚の一途をたどりました。

(左)校歌完成の翌年となる昭和6年には、航空部の「日本青年号」が訪欧飛行 に成功。本学のみならず日本中を湧かせる「世紀の快挙」を成し遂げた(右)六大学野球で初優勝した昭和5年、大いに沸く応援団

(左)校歌完成の翌年となる昭和6年には、航空部の「日本青年号」が訪欧飛行 に成功。本学のみならず日本中を湧かせる「世紀の快挙」を成し遂げた(右)六大学野球で初優勝した昭和5年、大いに沸く応援団

「法政スピル」を模索する応援団を取材した、大学新聞の記事(昭和8年)

「法政スピル」を模索する応援団を取材した、大学新聞の記事(昭和8年)

1928(昭和3)年の「法政大学新聞」に「法政スピリット」という言葉が初登場以降、「法政スピル(スピリットの意)」「法政気質」という言葉が紙面に散見され、母校のアイデンティティーを探求して議論を重ねていた学生たちの姿が伝わってきます。当時の学生が法政の校風は何ですか、と教員に尋ねたところ、校風は君たち学生が作り上げればいいじゃないか、と叱咤激励されたというエピソードも残っています。

やがて母校に誇りと愛着を抱く学生が、自分たちの手で法政の校風を醸成していこうとする機運が高まる中、「法政スピル」を象徴するものとして、新校歌を待望する声が沸き上がります。そして1929(昭和4)年、応援団の学生を中心として「新学生歌作成準備委員会」が設立されました。当時、すでに校歌は存在していましたが(現在は行進曲として使われている「名 大いなれ法政」)、学生たちは「曲調が賛美歌のようで盛り上がりに欠ける」と感じていたようです。そのためスポーツ応援の際には他大学の校歌に対抗し、気分を高揚させる校歌を必要としていたのでしょう。

しかし当初は歌詞を学生公募するも意見の一致を見ることはなく、その後も作詞を依頼した佐藤春夫と作曲家・近衛秀麿の衝突などもあり、校歌制作は難航します(※)。当時の大学新聞には「法政スピル高揚の新校歌の完成近し」なる記事まで登場。委員が気をもむ全学生に向けて校歌の進捗状況を子細に説明しています。 紆余曲折の末、ようやく校歌が完成した1930(昭和5)年、本学野球部は念願の六大学野球初優勝を果たします。この快挙に、応援に駆けつけた満場の本学学生が沸きかえるなか、新校歌が音吐朗々と初披露されたのです。