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ボアソナード博士 胸像物語

2012年06月21日

~博士の功績 再評価の歴史をひもとく~ 大学史編纂室

本学の草創期を支えたボアソナード博士。その胸像は現在、ボアソナード・タワーの1階と26階に置かれています。
胸像の原型が制作されたのは、今から77年前のフランスでした。
なぜこの時代、この地で胸像の原型が作られたのか―。
当時の制作秘話と、ボアソナード像がたどった歴史を振り返ることで、博士の功績が後世においてどのように受け止められてきたのか、ひもといていきます。

1. はじめに

ボアソナード博士 胸像物語

エミール・ボアソナード・ドュ・フォンタラビー)は、1825年フランス・ヴァンセンヌ市に生まれました。グルノーブル大学・パリ大学で教鞭を執った後、明治政府により法律顧問として招聘され、1873年に来日します。民法典・刑法典など日本近代法の礎を築いた功績から「日本近代法の父」と称される一方、司法省法学校で教壇に立ったほか、本学の前身・東京法学校の初代教頭としてその草創期を支えるなど、日本の法学教育にも尽力。実に22年の年月を日本で過ごした後、1895年に帰国します。そして1910年、南フランス・アンチーヴで逝去しました。
本学にとっては、まさに「草創期の恩人」であるボアソナード博士。その胸像は現在、ボアソナード・タワー26階のスカイホールに置かれています。しかし同じ原型から作られた胸像が、最高裁判所とパリ大学に現在も置かれていることは、あまり知られていないかもしれません。
この胸像の原型が製作されたのは、ボアソナード没後25年目となる1934年、第二次世界大戦前夜のことでした。それから現在までに大戦の勃発、終結後の東西冷戦の開始、日本においても戦時中の混乱期から敗戦、その後の高度経済成長と学生運動の激化など、世界は激動の歴史を経験しました。
このボアソナードの胸像も、そうした「歴史」と深く関わってきました。その誕生から現在まで、各時代の社会状況の中で、人々が博士の胸像にどのような意味を見出し、どのような願いを託してきたのか―。胸像がたどった77年の年月と、関わった人々の“思い”を検証します。

2. 失われた“最初の”胸像

本学が所有するベヌトー制作の胸像原型。ボアソナードの遺品の中から発見された右下の写真を元にしたと推測される

本学が所有するベヌトー制作の胸像原型。ボアソナードの遺品の中から発見された右下の写真を元にしたと推測される

実はボアソナードをモデルとした胸像は、本学が所有しているものが最初ではありません。まずは本学の胸像“以前”に存在した、最初のボアソナード胸像について紹介します。
1910年6月27日のボアソナード逝去の報を受け、同年11月、加太邦憲・磯部四郎・高木豊三・栗塚省吾・岸本辰雄らボアソナード門弟および親交のあった人々によって明治大学内に「ボアソナード博士記念物建設会」が設立されました。同会は集めた資金で、ベルギー帰りの新進彫刻家・武石弘三郎に胸像制作を依頼。武石は写真を元にボアソナードの胸像を制作しました。完成した胸像は1913年5月27日、東京地方裁判所に設置されましたが、残念ながら1923年9月の関東大震災によって焼失してしまいました。現在、その姿を見ることはできませんが、当時の新聞記事に、胸像の貴重な写真が残されています。

(左)1934年6月27日、パリ大学で行われた胸像除幕式の一場面。演台に立っているのは、アリックス法科大学長(右)東京地方裁判所にボアソナードの胸像が設置されたことを伝えた、1913年6月16日付の東京朝日新聞に掲載された写真

(左)1934年6月27日、パリ大学で行われた胸像除幕式の一場面。演台に立っているのは、アリックス法科大学長
(右)東京地方裁判所にボアソナードの胸像が設置されたことを伝えた、1913年6月16日付の東京朝日新聞に掲載された写真

3. 在仏日本人による「ボアソナード教授記念事業」

ここからは本学の胸像が誕生した経緯について振り返ります。
ボアソナード25回忌を控えた1934年4月、パリにおいて杉山直治郎(東京帝国大学教授)、楢橋渡(弁護士。後に内閣書記官長、運輸大臣などを歴任)、城戸又一(大阪毎日・東京日日新聞〈現・毎日新聞〉特派員)ら在仏日本人の発起の下、佐藤尚武フランス大使、エドガール・アリックスパリ法科大学長賛助によって「ボアソナード教授記念事業」が始まりました。日本においても直ちに広田弘毅外務大臣、小山松吉司法大臣(後に本学総長)を中心に発起人委員会が設立され、各省庁、法政・東大・明治などボアソナード所縁の各大学、日仏協会および日仏会館、大阪毎日・東京日日新聞などが参集し、寄付金総額一万五千二百六十円を集めました。
このような日本での活動を受け、パリでは佐藤大使、アリックス法科大学長、アンリ・キャピタン教授を中心に「ボアソナード教授胸像除幕式挙行委員会」が設立され、同委員会は当時フランスで活躍していた彫刻家フェリックス・ベヌトー(FelixBenneteau)に胸像制作を依頼しました。ベヌトーは原型とパリ大学に設置するための胸像を制作し、1934年6月27日、パリ大学大廊下にて日仏両国300人ほどが参列する中、除幕式が挙行されました。除幕式では、佐藤大使が日本の発起人委員会の名において胸像を寄贈。さらに日仏各教授陣によってボアソナードの功績を称える演説がなされました。この胸像は今日も、パリ大学の廊下に設置当時のまま置かれています。
なお、この時に残った寄付金は、アンチーヴにあるボアソナード墓所の保存および修理費用に充てられました。

4. 胸像に秘められた在仏日本人の思い

発起人の一人で、記念事業の広報活動を担当した大阪毎日・東京日日新聞特派員の城戸(後に東京大学新聞研究所所長などを務める)は、吉川経夫本学教授らとのボアソナード来日百年記念座談会において「一時期は若干忘れ去られた感があったボアソナードが再び掘り起こされ、この記念事業が実現するに至ったのは、発起人の杉山東大教授とパリ大学のキャピタン教授の非常な尽力があったからだ」と証言しています。
杉山は富井政章(梅謙次郎と同じく民法起草の三博士の一人。梅とともに和仏法律学校時代の本学を支え、法政大学の教頭などを歴任)の愛弟子で、比較法学・フランス法の権威として知られている人物です。杉山は大学院生のころから10年以上、本学で民法の講義を担当するなど本学との関係が深く、ボアソナードを「洋才和魂の法学者」「我国近代文化の一大恩人」と評価していました。杉山はパリ大学との交換教授として当時パリに滞在していましたが、パリでは1933年11月から「明治民政史を連続講演してフランス学界から非常な歓待を受けた」(『東京朝日新聞』1934年11月25日)とあることから、その講演の中でボアソナードの近代日本における貢献を紹介したと推測されます。
城戸自身も杉山からボアソナードの話を聞き、記念事業へ参加することになったと語っています。またフランス側で杉山に呼応し、その後ろ盾となったのが、杉山のフランス留学時代の恩師・キャピタン教授(パリ大学)だったと言います。
以上の城戸の証言は、記念事業発端の直接的な理由としては正しいと考えられますが、杉山、城戸に続く、もう一人の発起人の楢橋渡がなぜ参加するに至ったのか、そしてそもそも、なぜこの事業が日本国内ではなく、フランスの在仏日本人によって発起されたのか、という点に疑問が残ります。
楢橋は戦後に運輸大臣まで務めた大物政治家として有名ですが、このころはヴォルテールやルソーといったフランスの自由主義的思想家に憧れて渡仏した若き弁護士でした。リヨン大学を経て、パリ大学の博士課程に進学した彼は、そのフランス法の知識と見識を買われ、フランスとの訴訟を抱えていた東京市の顧問も務めていました。
楢橋の自伝・評伝において、記念事業への言及は見当たらないのですが、記念事業の前年(1933年)9月から「国難打破同盟」という活動を始めた、という記述があります(『楢橋渡伝』1982年)。当時、リベラルな文化人・知識人が多かった在仏日本人の間では、1933年3月の国際連盟脱退によって、日本の国際的な孤立が深まるとの危惧が高まり、会長の楢橋を筆頭に、「つねに日本の軍部の横暴に憤怒」していた坂本直道(坂本龍馬の子孫、満鉄支社長)、松尾邦之助(読売新聞特派員)ら同志が集まり、平和運動を展開していたそうです。
また同会のメンバーであった松尾の自伝『巴里物語』に、1934年暮れに楢橋、坂本らと「日仏の親善を実現し、できれば、日仏の文化同盟を結ぶように努力し、他方、日・独・伊の接近(※1)を妨げるため、経済的にイギリスに近づく外交に拍車をかけようと申し合わせ」、その第一歩として「日仏同志会」を結成したと書かれています。「国難打破同盟」という名称こそ出てきませんが、その理念内容や参加メンバーが全く同じであることから、松尾の語る「日仏同志会」は「国難打破同盟」と同一の活動、もしくはその後継であると推測されます。
楢橋のボアソナード記念事業への参加を理解するには、彼が法律の専門家であったことはもちろんですが、国際社会で孤立し、帝国主義へとひた走る母国を危惧した在仏日本人たちが、日仏の親善をより深めることで事態の好転を図ろうとした一連の活動があったことを考慮すべきだと思われます。強固な「日仏親善」を目指す彼ら在仏日本人にとって、「我国近代文化の一大恩人」であるボアソナード博士は、その象徴としてもっとも相応しい人物であったといえるでしょう。
その後、完成した胸像の原型は東京の発起人委員会に届けられ、日本における発起人委員会の中心的人物の一人、小山松吉が総長を務めていた本学に寄贈されることになり、1934年12月24日、外務省で胸像の原型贈呈式が挙行されました。これが現在も本学に保存されている胸像の原型です。その後、この原型をもとに制作された胸像が大審院(現在の最高裁判所)の玄関広間に設置されましたが(年月日は不明)、1945年3月の東京大空襲で焼失してしまいました。

1953年12月21日、本学で行われた胸像除幕式に参列する大内兵衛と孫娘の茉利子(写真右側)、レヴィー仏大使(左側)

1953年12月21日、本学で行われた胸像除幕式に参列する大内兵衛と孫娘の茉利子(写真右側)、レヴィー仏大使(左側)

(左)南フランス・アンチーヴにあるボアソナードの墓碑。1979年、本学の創立100周年記念事業の一環として、当時の中村哲総長のイニシアチブで新たに円形のレリーフが取り付けられた(右)レリーフ部分拡大。彫刻家の西常雄多摩美術大学教授によって作られたレリーフには、周囲にフランス語で「法政大学(設立1880年東京)創立の恩人ボアソナード博士を顕彰してこのレリーフを捧げる寄贈者 法政大学1979年」と記されている

(左)南フランス・アンチーヴにあるボアソナードの墓碑。1979年、本学の創立100周年記念事業の一環として、当時の中村哲総長のイニシアチブで新たに円形のレリーフが取り付けられた(右)レリーフ部分拡大。彫刻家の西常雄多摩美術大学教授によって作られたレリーフには、周囲にフランス語で「法政大学(設立1880年東京)創立の恩人ボアソナード博士を顕彰してこのレリーフを捧げる寄贈者 法政大学1979年」と記されている

5. 建学の精神 復興を願い本学に胸像を建設

大内兵衛本学総長、田中耕太郎最高裁判所長官、鵜沢総明明治大学学長を中心に「ボアソナード博士記念事業会」が発足しました。それは第二次世界大戦終結から8年、サンフランシスコ講和条約の締結からは約1年半が経過し、驚異的なスピードで敗戦を乗り越えた日本が早くも高度経済成長期に突入しようとしていた時期でした。本学においても新キャンパスの再建が開始され、その手始めとして53年館(旧大学院棟)が竣工したころでした。 同記念事業会は本学が保管していた原型を元に、一体を焼失した最高裁判所の胸像の再建として、もう一体を本学の新校舎・53年館の中庭に設置するため、合計2体を制作しました。さらに本学では胸像に併せて、碑文を記した大理石の台座も同時に制作しました。
1953年12月21日午前、最高裁判所において大内総長、田中長官、鵜沢学長、ダニエル・レヴィー フランス大使、ド・ラ・モランディエール パリ法科大学長、そして吉田茂総理大臣ら出席のもと、胸像除幕式を挙行。同日午後、ほぼ同じメンバーで法政大学においても除幕式が挙行されました。大内総長は本学の除幕式で「法政大学は、いま甚だしい戦禍を受けまして、いろいろな点で再建の途上にあります。言うまでもなく、その昔の学問に対する自由の精神と真理に対する愛情とをまずもって大いに昂揚しなければなりません。その意味においては、ボアソナード先生による建学の精神をも復興しなくてはなりません」と、胸像設置の意義について述べました。 大内総長は東京帝国大学教授であった1937年、治安維持法に反したという理由で有澤廣巳(後に本学総長)ら多くの大学教授とともに「人民戦線事件」(※2)で検挙されました(1944年9月、無罪確定)。それはまさに、この発言内にある「学問に対する自由の精神と真理に対する愛情」が国家権力によって踏みにじられた弾圧事件でした。この事件を理由に、東大内で大内総長を教授職から離職させようとする動きが勢いづく中で、それに「レジスタンス」をした「東大リベラリズム」の一人が、当時は東大の法学部教授だった田中長官でした。
彼がこの除幕式に参列し、大内総長のスピーチを見守っていたことは、二人の浅からぬ因縁を思えば感慨深いものがあります。大内総長が「ボアソナード先生による建学の精神」としている「学問に対する自由の精神と真理に対する愛情」は、このような戦時中の経験を共有する両者にとっては、切に「復興」すべきものであったに違いありません。そして完成したばかりの校舎の中庭中央という当時のキャンパスの最も目立つ場所にボアソナードの胸像を設置したのは、戦後における本学の「復興」を、まずボアソナードの「建学の精神」の「復興」から始めることを象徴的に表現した行為だったのではないでしょうか。
大内総長は戦災を受けた本学を「復興」し、戦後の礎を築いたと評されていますが、それはキャンパスの再建といったいわゆる物理的な側面のみならず、理念的・精神的な側面における「復興」でもあったことは言うまでもありません。

6. 60年代から現在まで

1960年代後半、日本中で学園紛争の嵐が吹き荒れました。その最中にあった1969年、本学のボアソナード胸像も被害を受けました。
当時の中村哲総長は1973年のボアソナード来日百周年記念までに胸像を再建することを宣言。1973年11月15日に行われた「ボアソナード来日百年記念講演会」において胸像は無事復元され、以前と同じ53年館中庭に設置されました。
1992年9月、53年館の取り壊しに伴い、胸像は80年館中庭に移動となりましたが、2002年からは、公募により博士の名を冠した新校舎ボアソナード・タワーの26階スカイホールに、新たに制作された木製の台座とともに設置されました。
なお1953年に初代胸像と併せて作られた大理石製の台座は、現在、胸像の原型とともに多摩キャンパスで保管していますが、新たな利用方法が検討されています。

※1 この6年後の1940年、日独伊三国軍事同盟が締結される。その翌年の1941年、日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発する。
※2 人民戦線事件:1937年、治安維持法の弾圧対象が日本共産党のみならず、それまで合法的な存在であったマルクス主義者(労農派)や社会民主主義者にまで拡大。「 コミンテルン(共産主義の国際組織)の呼びかけに呼応し、人民戦線の結成を企てた」として運動家のみならず大学教授までもが一斉検挙された事件。