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Vol.47 法政大学 ゆかりの地(2)長野県白馬村の学外施設

2012年05月10日

長野県白馬村の学外施設

白馬村でのスキー教室の一場面。福岡は本学の学生だけでなく、一般に向けても広くオーストリアスキーを伝授した

白馬村でのスキー教室の一場面。福岡は本学の学生だけでなく、一般に向けても広くオーストリアスキーを伝授した

1946(昭和21)年、戦時中に疎開していた長野県北安曇郡北城村細野(現白馬村八方)で、後に白馬山岳スキーリゾートの礎となる「リーゼンスラローム(大回転)コース」を拓いた福岡孝行(1913~1981)。1952(昭和27)年、39歳となった福岡はドイツ語の講師として本学の教壇に立ち始めます。

かねてよりスキー関連の翻訳本や、自身が確立したスキー技術の解説書などを精力的に発表するなど、日本におけるスキー文化の浸透に努めていた福岡は、本学でも1956(昭和31)年から公開講座「オーストリアスキー教室」を開講、150人の学生を集めます。そこには「座学に勤しむだけでなく、身体を動かす喜び、さらに雪山で自然との調和を感じ、静寂の中で己を振り返るひと時を学生に体験させたい」との思いがありました。

昭和30年代半ば、本学はすでに学外施設として「遠見ヒュッテ」(下段コラム)を所有していましたが、一般学生が利用しにくい立地にあったため、新施設の必要性が議論されていました。そこで第一教養部教授となっていた福岡が中心になり建設計画を進め、1965(昭和40)年、「法政大学白馬山荘」が竣工しました。名木山ゲレンデを山すそ沿いに10分ほど歩いた山の中腹に位置し、スキー板を履いたままゲレンデにアクセスできる絶好のロケーションにあったことから、本学のスキー授業やスキー教室はさらに充実していきました。

その後、長野県は1998(平成10)年の冬季オリンピック開催地に決定します。山荘のあった場所がジャンプ競技ラージヒル(旧90メートル級)とノーマルヒル(旧70メートル級)のジャンプ台建設地に選ばれたため、長野県の要請を受けて移転することとなりました。

こうして1991(平成3)年2月、JR白馬駅から約1・2キロメートル、雄大な白馬連峰を一望できる場所に現在の「法政大学白馬山荘」が建設されました。

旧・白馬山荘があった場所。長野オリンピックで使用された2本のジャンプ台は、現在もそのまま残されている        瀟洒な洋館といった風情の現・白馬山荘。その外観は、本学の校章を模したデザインになっており、サッシにも法政カラーが配されている

(左)旧・白馬山荘があった場所。長野オリンピックで使用された2本のジャンプ台は、現在もそのまま残されている
(右)瀟洒な洋館といった風情の現・白馬山荘。その外観は、本学の校章を模したデザインになっており、サッシにも法政カラーが配されている

学外施設第一号 遠見ヒュッテ

開発が進み、現在は「白馬五竜スキー場」の最上部に位置する遠見ヒュッテ。老朽化から1983(昭和58)年に再建したが、旧ヒュッテの梁は移築されている

開発が進み、現在は「白馬五竜スキー場」の最上部に位置する遠見ヒュッテ。老朽化から1983(昭和58)年に再建したが、旧ヒュッテの梁は移築されている

山岳部、ワンダーフォーゲル部などの登山時ベースキャンプとなる「遠見ヒュッテ」。この施設は1953(昭和28)年、山岳部員とそのOBの熱意により建てられました。
建設場所は当時、山道も通わない原生林でした。本学から10万円の資金提供があったものの山小屋の建設費が不足していたため、山岳部員は自力で神城村から小屋に通じる小道を切り拓き、建築資材を肩に担いで運び上げました。標高差約800メートルの険しい山道を物ともせず、30貫(約110キログラム)以上あった梁もたった一人で担ぎ上げたという、彼らの情熱と屈強さを伝える逸話が残っています。
部員たちは建設作業も手伝い、2年がかりでヒュッテは完成しますが、まもなく山岳部単独での維持が困難となり本学に移管され、第1号の学外施設となりました。

取材協力 : 福岡孝純スポーツ健康学部教授(福岡孝行教授ご子息)