2012年度

Vol.44 法政大学史跡「法政大学発祥の地」記念碑

2012年04月05日

2012年度

「法政大学発祥の地」記念碑

法政大学の前身である「東京法学社」は、1880(明治13)年4月、当時の神田駿河台北甲賀町19番地池田坂上(現在の駿河台日本大学病院の場所)に設立されました。これを記念する石碑が2011年5月19日、杏雲堂病院横の明大通り歩道(千代田区神田駿河台1丁目8番地)に完成しました。
この神田周辺(小川町、淡路町、錦町、神保町、一ツ橋など)には、阿部伊予守など大名の江戸屋敷が多くありました。ところが幕府の崩壊により、このあたりに屋敷を構えていた武家や旗本は、国元に帰るなどして一斉に名を消します。空家や空地には新政府の役人や公卿・華族などが入り、学校や病院が数多く作られました(八木福次郎『古本屋の手帖』平凡社)。

記念碑の前に立つ増田総長(右)と鈴木理事

記念碑の前に立つ増田総長(右)と鈴木理事

天野郁夫『大学の誕生(上)』(中央公論新社)では「私立専門学校のほとんどが東京に、しかも帝国大学の所在する本郷と霞ヶ関の官庁街とのほぼ中間に位置する、神田界隈に集中していたひとつの理由はそこに、つまり非常勤講師たちが出講可能な時間距離のなかにあったためといってよい」と述べられており、その名残で現在この周辺は、明治大学や日本大学など多くの大学が所在する学生街となっています。
山本忠兵衛編『区分町鑑 東京地主案内』には、「駿河台北甲賀町19番地池田坂上」の所有者として、大原重徳の名前があります。大原重徳は幕末における攘夷派の公家で、維新後は参与などを務めた人物です。大原は単に土地を所有していただけでなく、そこに邸宅を構えていました。『明治13年 代言人登録名簿』によると、同地は1880(明治13)年における伊藤修の住所と同じです。伊藤修は、薩埵正邦、金丸鉄とともに東京法学社設立に参画した一人ですが、当時まだ若い伊藤の収入では、例え借家であったとしても、大原邸全体を借りていたとは考えにくく、おそらく大原邸の一角を借り受け、そこに「東京法学社」を開校したのではないかと推測されます。
1907(明治40)年当時の地図を見ると、「駿河台北甲賀町19番地」は現在の駿河台3丁目6番地(トーア再保険本社ビル)に位置しており、従来はこの場所が東京法学社創立の地ではないかという見解もありましたが、明治初期と後期では地番の振り方が異なっていることが判明し、綿密な調査を行った結果、「駿河台北甲賀町19番地」は現在の駿河台1丁目8番地(現在の駿河台日本大学病院)であると結論づけられ、この度の記念碑設置に至りました。

「法政大学発祥の地」は増田総長の揮毫による

「法政大学発祥の地」は増田総長の揮毫による

(左)人文社『番地界入 神田區全圖 明治四十年(1907)』より加工。東京法学社が設立された1880(明治13)年とは地番の振り方が異なり、発祥の地は12番地とされている (右)明治時代から街の形はほぼ変わっておらず、明治大学、中央大学、日本大学のキャンパス、施設が所在している

(左)人文社『番地界入 神田區全圖 明治四十年(1907)』より加工。東京法学社が設立された1880(明治13)年とは地番の振り方が異なり、発祥の地は12番地とされている (右)明治時代から街の形はほぼ変わっておらず、明治大学、中央大学、日本大学のキャンパス、施設が所在している

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