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Vol.1 第一校舎設計者・山下啓次郎の遺品

2011年04月20日

山下啓次郎研究の一級資料「履歴控」

2007年の外濠校舎竣工にともない解体された第一校舎は、それまで市ケ谷キャンパスで最古の建築物でした。第一校舎は1927年に竣工し、当時は「第三校舎」として使用されていましたが戦災で旧第一校舎、第二校舎が焼失したため、図書館のあった旧第三校舎が戦後は「第一校舎」として利用されてきました。

設計した山下啓次郎(1868~1931)は、明治・大正期の建築家で、後年には法政大学第一工業高等学校の校長(1976年に法政大学第二高等学校と合併)も務めています。

第一校舎解体と、外濠校舎竣工に伴って、2007年5月に開催された「第一校舎設計者 山下啓次郎 回顧展」では山下家所蔵の資料をはじめ、本学所蔵の第一校舎設計図や関係資料、山下啓次郎が設計を手がけた大阪控訴院、名古屋控訴院、日本赤十字社埼玉支部の関係資料、東京帝大時代に教授や同級生とともに木曽・水戸・日光へ1カ月ほどの小旅行をした際、同級生の伊東忠太が綴った旅行絵日記、「耐震煉瓦造建築に関する研究」と題した英文の卒業論文などの資料が展示されました。

これらのうち特に貴重なのが、山下家より提供を受け、山下啓次郎の孫で、ジャズピアニスト、エッセイストとして知られる山下洋輔氏がお持ちの写真、系統図、書簡、書綴りなどの資料です。中でも、山下啓次郎自筆と伝えられる「履歴控」は山下啓次郎研究の一級資料となる記録です。

「履歴控」は、東京帝国大学造家学科を卒業後、明治25年8月に警視廳雇員となり、同日ただちに巣鴨監獄建築掛を命ぜられた記録から始まり、大正14年にいたるまでの官歴、出張記録、叙勲などの記録、および俸給、賞与、設計料などの収入が記された、いわばメモ帳のようなもの。

収入の欄には、大正9年から14年まで毎年、法政大学からの収入の記録があり、この間、どのような形で山下啓次郎が本学と関わっていたのかは、今後の研究が待たれます。

また、この「履歴控」の記録によって、コンドルの設計とされていた樺山伯爵邸(白洲正子の実家)が、山下啓次郎の設計、しかも彼の第一作であることが判明したのは、今では有名なエピソードとなっています。このことは、山下洋輔氏の著書『ドバラダ門』の中で明らかにされています。

「履歴控」の最初のページ。「警視廳雇員」となり、同日巣鴨監獄建築掛に任命されたことが記されている。

「履歴控」の最初のページ。「警視廳雇員」となり、同日巣鴨監獄建築掛に任命されたことが記されている。

大正9年度収入の中に、「一金弐百円 法制(政)大学より」の記述が見える。 法政大学からの収入の記録は大正14年まで続いている。

大正9年度収入の中に、「一金弐百円 法制(政)大学より」の記述が見える。 法政大学からの収入の記録は大正14年まで続いている。

設計報酬等は後半にまとめて記載され、その最初のメモに、明治25年に樺山子爵邸の設計監督を引き受け、翌26年に落成して金時計1個を贈られたと記されている。

設計報酬等は後半にまとめて記載され、その最初のメモに、明治25年に樺山子爵邸の設計監督を引き受け、翌26年に落成して金時計1個を贈られたと記されている。

山下啓次郎は漢詩と書道を愛好し、多くの詩を残した。書道は楷書をよくし、錦甲と号した。右の葉書は昭和5年に司法省を退官した際の挨拶状。自作の漢詩が添えられており、左はその自筆の原作。この年に本学工学部の講師に招かれるが、翌6年2月6日に胆嚢炎で死去。

山下啓次郎は漢詩と書道を愛好し、多くの詩を残した。書道は楷書をよくし、錦甲と号した。右の葉書は昭和5年に司法省を退官した際の挨拶状。自作の漢詩が添えられており、左はその自筆の原作。この年に本学工学部の講師に招かれるが、翌6年2月6日に胆嚢炎で死去。

祖父・山下啓次郎の遺品について説明する山下洋輔氏夫妻(2007年本学80年館にて撮影)。祖父が「明治の五大監獄」の設計者と知り驚いた洋輔氏が、そこから始まるルーツ探しの旅を著したのが『ドバラダ門』(新潮社)だ。

祖父・山下啓次郎の遺品について説明する山下洋輔氏夫妻(2007年本学80年館にて撮影)。祖父が「明治の五大監獄」の設計者と知り驚いた洋輔氏が、そこから始まるルーツ探しの旅を著したのが『ドバラダ門』(新潮社)だ。

山下啓次郎

山下啓次郎

第一校舎(旧第三校舎)外観

第一校舎(旧第三校舎)外観

第一校舎(旧第三校舎)講堂

第一校舎(旧第三校舎)講堂