法政大学エピソード

清国留学生法政速成科

法政大学エピソード

1904(明治37)年には清国留学生法政速成科が開設されます。この卒業生の中から、中国の近代化、新中国建設に重要な役割を担う人物が輩出されています。法政大学の大きな特色の一つである国際交流の源をここに見いだすことができます。
以下の記事は、雑誌『法政』2002年5月号-法政大学の歴史<その50>-より抜粋です。

法政大学および法政速成科には、辛亥革命の指導者や、中華民国の中心的存在となった人々が留学生として多く在学していた。
例えば、辛亥革命の世論を準備するのに、最も大きな影響を与えたパンフレットとして鄒容「革命軍」と並び称せられる「猛回頭」「警世鐘」の著者であり、1905年公布された、いわゆる「清国留学生取締規則」に抗議して入水自殺を遂げた陳天華や、のちに南京政府を樹立し、日本のいわゆる傀儡政権を担った汪兆銘をはじめ、宋教仁・胡漢民などがその代表である。

明治39年清国留学生法政速成科卒業記念

また、沈鈞儒のように中華人民共和国最高人民法院長となった人物もいた。1913年に開会した参議院・衆議院の議員や、各省諮議局(地方議会)議員に数多くの法政出身者がいること(特に諮議局議員は法政出身者が多数を占めており、日本留学・視察経験のある者97名中、法政出身者は48名にのぼる)、立法業の中心となった人物や、各地法政学堂などの教育機関の設立者や責任者となって法律・政治教育に携わった法政留学生は、枚挙にいとまがない。
その中には程樹徳のような中国法制史研究をリードしていく学者の名前も見られるが、法政の卒業生・在学経験者が、華やかな革命運動のみならず、地道な法制度整備や教育事業の従事、地方自治への参加などのような、さまざまな回路を通じて中国の近代化に果たした役割の大きさと裾野の広がりをうかがい知ることができる。