HOME > 法政大学について > 法政大学の歴史 > 法政大学のエピソード > 黄金時代を迎える旧制法政大学


黄金時代を迎える旧制法政大学

旧制法政大学ときら星のごとき教授陣

竣工した第一校舎(大正10年),お濠に影を映した 富士見校舎(昭和初期),六大学野球で慶應を二蹴。 大喜びする応援団(昭和5年)

1918(大正7)年、大学令公布により、それまで帝国大学に限られていた大学制度が公立、私立にも拡張され、1920(大正9)年、和仏法律学校法政大学は、旧制大学令に基づく法政大学として新たなスタートを切ります。

旧制法政大学には法学部法律学科・政治学科、経済学部経済学科・商業学科、大学予科および各学部研究科が設けられました。予科には野上豊一郎、森田米松(草平)、安倍能成、内田栄造(百閒)ら、夏目漱石門下の逸材が名を連ねていました。
1921(大正10)年、現在の市ケ谷キャンパスに木造3階建ての新校舎が竣工、大学としての整備が進められ、翌1922(大正11)年には、法学部が法文学部に改組、文学科と哲学科が新たに加えられました。

そして、1928(昭和3)年5月、創立50周年記念式典が挙行され、教育・研究面の充実が一段と進む中で、法政大学は戦前の黄金期を迎えます。この頃、学生生活の面でも大きな高揚を迎えます。一つは佐藤春夫の詞による 校歌が制定され、1931年(昭和6年)1月に発表されたこと。その前年の秋には、東京六大学野球に初優勝します。
さらに、学生訪欧飛行の成功という大きなニュースが、法政大学のキャンパスばかりでなく日本中をわかせました。

法政黄金時代を象徴する「青年日本号」の訪欧飛行

「青年日本の代表者」としての面目を発揮

「青年日本の代表者」としての面目を発揮

1931(昭和6)年5月29日、開港間もない羽田国際飛行場から小さな複葉のプロペラ機が飛び立ちました。東京朝日新聞夕刊が「吾等の『青年日本号』訪欧の壮途に上る」と題して一面トップで伝えたこの複葉機こそ、法政大学航空部の「青年日本号」でした。地図と羅針盤だけを頼りにした有視界飛行でローマを目指す「青年日本号」には、正操縦士として経済学部2年生・栗村盛孝、付添教官の熊川良太郎一等飛行士が搭乗していました。
シベリアからウラル山脈を越え、ドイツ、イギリス、フランスでの親善友好を果たし、ローマのリットリオ飛行場に翼を休めたのは8月31日。

まさに校歌にうたわれている「青年日本の代表者」としての面目を発揮した、世紀の快挙と称賛された飛行でした。





参考資料 「HOSEI MUSEUM」