第3章 民法の父・梅謙次郎

国の要職に従事しながら和仏法律学校初代総理として尽力

辻新次から仏学会月次報告編纂取調委員預を委託され、承諾したもの

明治24年1月10日、梅謙次郎が仏学会会長の辻新次から仏学会月次報告編纂取調委員預を委託され、承諾したもの。辻は和仏法律学校設立時に理事員を務めた。

梅謙次郎(1860~1910)は、松江藩の侍医の次男として生まれ、1874(明治7)年に一家で上京、1880(明治13)年に東京外国語学校仏語科を最優等の成績で卒業した。

1884(明治17)年に司法省法学校を首席で卒業、司法省御用掛から東京大学法学部教員となった85年に文部省の命により欧州留学。

仏・リヨン大学、独・ベルリン大学に学んで1890(明治23)年に帰国した。

同年に帝国大学法科大学教授となるが、その身分のまま、同年に和仏法律学校の学監兼講師(無報酬)となった。

その後、農商務省参事官、民法・商法施行取調委員を経て、1893(明治26)年4月、法典調査会主査委員となり、民法・商法などの立案・起草に従事した。

この時、梅とともに民法起草委員となったのが、薩埵の義弟で後に和仏法律学校校長となる富井政章と、英吉利法律学校(現中央大学)創立者の一人である穂積陳重だ。

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渋沢栄一が梅ら3委員に宛てた書簡を初展示

渋沢栄一が梅ら3委員に宛てた書簡

明治政府の法典調査会査定委員を務める渋沢栄一が、起草委員の梅謙次郎、富井政章、穂積陳重に宛てた書簡。商取引の慣習に従った法案づくりが合理的だという意見を述べたもので、初公開となる貴重資料。

今回、この民法・商法起草に関する本学所蔵の貴重資料として、わが国の近代経済の基礎を築いた大実業家の渋沢栄一が、梅、富井、穂積の3人に宛てた書簡が初展示された。

当時、法典調査会査定委員を務めていた渋沢が、民法・商法の起草にあたっては、実際の商取引の慣例に従って、取引の承諾状を発行した時点で契約が成立すると定めたほうが最も合理的であるという意見を述べたもの。

実際の法律はそのとおりにできたといわれ、今後の研究が待たれる貴重資料の一つだ。

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財団法人となり「法政大学」の名称に

「世のなかは夢ばかりなるものぞかし夢に夢見るゆめの世の中」

くつろいだ時に書いたといわれる梅の書「世のなかは夢ばかりなるものぞかし夢に夢見るゆめの世の中」

1898(明治31)年11月、和仏法律学校は財団法人の認可を受け、翌年に梅が校長に就任した。

1903(明治36)年の専門学校令により、財団法人和仏法律学校は大学組織となり、文部大臣の認可を受けて「和仏法律学校法政大学」と改称。

この時、梅は本学初代総理に就任し、1910(明治43)年に京城(現・ソウル)で急逝するまで経営の中心となった。初めて登場する「法政」という名称の名付け親は梅と伝えられている。

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一流の教授陣を集めた清国留学生法政速成科

法政速成科講義録(上の2点)と、梅謙次郎による「清国留学生法学通論及民法講義備忘録」

法政速成科講義録(上の2点)と、梅謙次郎による「清国留学生法学通論及民法講義備忘録」

本学における梅の業績の一つが、「清国留学生法政速成科」の創設である。日清戦争後、アジア諸国から日本への留学生が急増した。このため、1904(明治37)年4月、和仏法律学校専任理事・梅謙次郎の名で、法政速成科設置が申請され、認可された。

法政速成科設置に際して、講師を依頼するため、松本蒸治東京帝国大学助教授、美濃部達吉東京帝国大学教授ら11人の法学・政治学の専門家に協議のための会合に出席してくれるかどうかをたずねた、法政大学総理・梅謙次郎名による書簡が本学図書館に残っている。

法政速成科は、清国各省の総督や巡撫(長官)から派遣された留学生を対象とし、修業年限は1年(のちに1年半に延長)。中国語の通訳付きで漢文訳の講義録を用いて法律学や行政学、経済学などの授業が行われた。1907(明治40)年には普通学の修養を目的とする普通科、ならびに予科を新設した。

梅謙次郎が松本蒸治、美濃部達吉ら11人の学者に宛てた書簡

梅謙次郎が松本蒸治、美濃部達吉ら11人の学者に宛てた書簡。清国留学生法政速成科の設置にあたって講師要請および諸事協議のため会合を開こうと出席の可否をたずねたもの。

法政速成科には、04年入学の第一班から06年入学の第五班まで2355人が在籍、うち986人が卒業し、08年に廃止された。
卒業生や在籍者の中には、胡漢民、汪兆銘、宋教仁、陳天華など、後年、中国革命史にその名を残す人たちがいた。この事業は法政大学にとって特筆すべきものだったが、財政上は大きな負担となっていたようだ。

梅はまた韓国司法制度関連事業でも知られる。

この事業については、日本による韓国支配という負の歴史を前面に出した評価がなされる一方、韓国裁判制度および土地制度の近代化への貢献を評価すべきとする意見に二分されている。