第2章 日本近代法の礎・ボアソナード

東京法学校・和仏法律学校を無償で支えた12年間

和仏法律学校の卒業証

和仏法律学校の卒業証。ボアソナードのサインを見ることができる。

ボアソナード(1825~1910)は、明治政府の法律顧問として来日した、いわゆるお雇い外国人の一人。

当時の日本にとって急務の課題だった不平等条約の撤廃のため、国内法の整備に尽力し日本近代法の礎(いしずえ)を築いた。

フランス・ヴァンセンヌ市で生まれたボアソナードは、パリ大学文科および法科を卒業し、パリ大学法科大学で教壇に立ち、1864年に法科大学教授資格(アグレジェ)試験に首席で合格した。

グルノーブル法科大学助教授を経てパリ大学でアグレジェとして講義を担当していた時、日本政府が鮫島尚信駐仏公使を通して法学教育と法典編さんのために来日を懇願した。

はじめ難色を示したが受諾し、1873(明治6)年に来日した。この時、契約期間は3カ年だったが、1892年まで更新した。

ボアソナード自筆のウルピアヌス

コラム:ボアソナード自筆のウルピアヌス
ボアソナード自筆のウルピアヌス(古代ローマの法学者)の法律格言とその翻訳文(福原直道訳)。ボアソナードに関しては、偶然目撃した拷問に驚いて司法卿に抗議し、拷問廃止の建白書を提出したのは有名な話だが、この時の司法卿宛の書簡と建白書の原文写しを含む、明治政府からの法律関係の質問に対するボアソナードの回答が筆写された『ボアソナード氏との交信録』(1978年に『ボアソナード答問録』として邦訳付きで法政大学出版局より復刊)や、署名が入った書籍なども展示された。

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東京法学校の開校と教頭ボアソナード

教頭ボアソナード、主幹薩埵正邦の署名が入った「帝国大学特別監督私立東京法学校」の卒業証

教頭ボアソナード、主幹薩埵正邦の署名が入った「帝国大学特別監督私立東京法学校」の卒業証

1881(明治14)年5月、東京法学社の講法局が独立して「東京法学校」が開校された。当時の『東京日日新聞』(5月28日付)掲載の広告には、「仏国法律大博士ボアソナード君爾来毎週一回民法契約篇ノ講義ヲセラル」とあり、東京法学校は創立時からボアソナードが教壇に立つことをセールスポイントにしていたようだ。

1883(明治16)年に教員を増員、この時、ボアソナードに懇願して教頭を引き受けてもらった。

1886(明治19)年8月、文部大臣森有礼から私立法律学校特別監督条規が帝国大学に布達され、東京法学校は「帝国大学特別監督」と呼ばれる帝国大学総長の特別監督下に置かれることになった。

本学には、教頭・ボアソナード、主幹・薩埵正邦の署名が入った「帝国大学特別監督私立東京法学校」の卒業証が残されている。1888(明治21)年5月に特別認可学校規則が施行されると、東京法学校は文部大臣の直接管理下に置かれるようになった。

1889(明治22)年5月、東京法学校と東京仏学校(1886年開校)が合併して「和仏法律学校」が発足。初代校長にはフランス学の大先達で当時司法次官だった箕作麟祥(みつくり・りんしょう)が推挙された。この時、校長を補佐する学監に就任したのが、欧州留学から帰国して帝国大学法科大学教授を務めていた梅謙次郎だった。

馬袋鶴之助の法服

コラム:馬袋鶴之助の法服
馬袋は1887(明治20)年に東京法学校を卒業し、兵庫県の豊岡で弁護士として活動した。馬袋が残した資料(明治の一弁護士の訴訟事件簿、出納帳、日誌等)は馬袋文庫として本学ボアソナード記念現代法研究所に保管されている。

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通訳を介して行われたボアソナードの講義

ボアソナードの東京法学校および和仏法律学校での講義は、1881(明治14)年5月から1894(明治27)年6月まで、途中1888年9月から1年3カ月の間フランス帰国により中断した以外、12年間にわたって無報酬で行われた。

東京法学校時代のボアソナードの講義は、主として当時起草中の民法草案によってフランス語で行われ、それを森順正ら数人の教員が通訳して授業を進めたといわれている。ボアソナードによる講義科目は、東京法学校時代の1885(明治18)年度「期満効法」、86年度「保証法」、87年度「物上権法」、88年度「物上担保法」、和仏法律学校時代の1892(明治25)年「民法原理」などが判明している。

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堀家文書で発見された和仏法律学校の時間割

「民法原理」講義筆記ノート(1892年)の一部

堀家文書(和歌山県立文書館寄託資料)中の堀正壽が残したボアソナードの「民法原理」講義筆記ノート(1892年)の一部。表紙の裏に当時の時間割が見られる。

今回の展示資料の中でもとりわけ貴重なのが、このボアソナードの「民法原理」講義を筆記したノートと日記だ。

和仏法律学校の生徒で和歌山県出身の堀正壽が残したもので、堀家から和歌山県立文書館に寄託された「堀家文書」に含まれ、一般に公開されるのは本展覧会が初めてとなる。

新聞紙の表紙をつけた講義筆記ノートには、ボアソナードの講義が細かな文字でびっしりと記されている。

また、ボアソナード、梅をはじめ当時の教員と担当科目がわかる授業時間割が残されているなど、法政大学史研究の上で非常に価値の高い資料だ。

堀家文書中の堀正壽の日記

堀家文書中の堀正壽の日記。明治24年9月11日の日記には「本日和仏校ヘ入学ス」と、和仏法律学校へ入学した記述が見られる。

この後、いわゆる「民法典論争」に破れ、1895(明治28)年3月、失意のうちに帰国するボアソナードだが、彼自身、自分が来日してから従事した事業は、「法律学の教授」「外交政略に就きての顧問」「法典編纂の事務」の3つに大別されると回顧している(「東京法学校雑誌」第16号)。

ボアソナードと本学との関わりは、20年間にわたる日本政府への貢献からすれば、より小さいものであったかもしれない。だが、東京法学社および東京法学校の講師のほとんどが彼の門下であり、東京法学校の教頭を務めたことからも、彼の精神は草創期の本学の内面的なよりどころ、支えとなり、志を抱いて集まった青年たちの育成に大きく貢献したのである。

明治25年度 和仏法律学校時間割表

堀正壽の講義ノートにあった時間割から作成した、1892(明治25)年の和仏法律学校の時間割。当時の開講科目とその担当者名がこれだけ詳細にわかる資料は貴重だ。ボアソナード、梅謙次郎、富井政章、松室致といった、東京法学校以降の法政大学を支えた人々が同時期に教壇に立っていたことがわかる。

学年
1 従前八時
至同九時
  民事訴訟法
高木豊三
商法第十一章以下
高木甚平
物権
城数馬
 
2 従前九時
至同十時
  国際私法
黒川誠一郎
法学通論
城数馬
 
3 従午后二時半
至同三時半
  (財産)取得編第四章迄
富井政章
 
4 従午后三時半
至午后四時半
  (人事編)人権
寺尾亨
財産取得篇第四章迄
富井政章
 民法原理
ボアソナード
5 従午后四時半
至午后五時半
  法理学法語科
富井政章
 
6 従午后五時半
至午后六時半
国際公法
バテルノストロー
商法
梅謙次郎
取得編十三章以下
田代律雄
 
7 従午后六時半
至同七時半
  債権担保編
梅謙次郎
民法総則
松室致
人事編
古賀廉造
取得編
水町袈裟六
8 従午后七時半
至同八時半
  仏国民法
岡田朝太郎
 
学年
1 従前八時
至同九時
法例
秋月左都夫
憲法
本野一郎
   
2 従前九時
至同十時
   
3 従午后二時
半至同三時半
   
4 従午后三時半
至午后四時半
人権
寺尾亨
証拠篇
森順正
 
5 従午后四時半
至午后五時半
理財学
志村源太郎
  擬律裁判
春日粛
  民事訴訟法
第三章迄
6 従午后五時半
至午后六時半
   民事訴訟法第三編以下
河村譲三郎
  亀山貞義
7 従午后六時半
至同七時半
(裁判所)構成法
福原直道
民法各論
飯田宏作
  人事編
古賀廉造
民法
福原直道
8 従午后七時半
至同八時半
  財政学
有賀長文
  仏国民法
岡田朝太郎
 
学年
1 従前八時
至同九時
物権
城数馬
  商法第十一章以下
高木甚平
  憲法
本野一郎
2 従前九時
至同十時
法学通論
城数馬
    国仏
岡田朝太郎
国語法科
3 従午后二時
半至同三時半
  問答会   民法各論
飯田宏作
 
4 従午后三時半
至午后四時半
  人権
寺尾亨
    第一第三討論会 第二第四演習
5 従午后四時半
至午后五時半
理財学
志村源太郎
問答会
寺尾亨
担保篇
梅謙次郎
 
6 従午后五時半
至午后六時半
問答会
城数馬
民事訴訟法
前田孝階
所得編
飯田宏作
  民事訴訟法
福原直道
行政法
春日粛
7 従午后六時半
至同七時半
  民事訴訟法
福原直道
取得編
田代律雄
  行政法
春日粛
8 従午后七時半
至同八時半
  民財学
有賀長文
   

和歌山県立文書館所蔵「堀家文書」(明治25年12月卒業堀正壽氏筆)